障がい者のキャラクターや才能を磨いて差別を減らす方法
先ほどの例を使うと、なぜ同じぐらいうるさいのに精神障がい者が叫んでいると他の車両に移り、スティービー・ワンダーだと聞き続けるのでしょうか?
それは、彼が偉大なミュージシャンであり、歌声が綺麗だからです。
つまり、そういう「健常者からも一目置かれる才能」によって差別的行動は減らせるんです。
植松容疑者が今年2月、衆議院議長に渡そうとした手紙にもこのようなことが書かれています。
私の目標は重複障がい者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。
重複障がい者に対する命のあり方は未(いま)だに答えが見つかっていない所だと考えました。障がい者は不幸を作ることしかできません。
出典:http://mainichi.jp/articles/20160727/k00/00m/040/020000c
この書き方を見る限りでは、高い才能により社会的活動ができていて、幸せを作ることができる障がい者であれば殺さなかったでしょう。
障がい者だって、健常者を超える才能を身に付けられる
誤解を恐れずに言えば、この3つができれば健常者と同レベルの勉強はできる時代です。
- PCやタブレットを操作できる
- 画面が見える
- 健常者と同じように考えることができる
そして、もっと重い障がいがあっても、ハンデはありますが勉強はできます。
- 両腕がない知的障がい者でも、足や音声でPCを操作して、YouTubeで絵の描き方の解説動画を見ていれば、足で美しい絵を描く才能が磨ける。
- 四肢がない視覚障がい者でも、TEDのスピーチを聞いて最先端の技術を勉強して、声でアウトプットすることができる。
(細かい操作は支援者に頼まないと無理かもしれませんが)
もちろん、障がいを持っている分、日常生活の中で困難はあるでしょう。
でも、健常者でも「金がない」とか「時間がない」と言って勉強しない人がワンサカいるわけで、可能な範囲で努力するだけでも、彼らにない才能を身に付けることは充分に可能です。
弱みを補うのではなく、強みを伸ばす
僕の想像なんかよりはるかに苦労は多いんでしょうけど、障がいはもう仕方がないことで、それを呪っていても何も起きません。
でも、使える部分を鍛えれば、何かしらできることは増えるんですよ。
これは健常者とまったく同じ話ですが、興味を持ったことをできる範囲でやってみて、没頭できたら続けていけば良いんです。
極端な話、「障がい者であること」自体が強みになるパターンすらありますよ。
障がい者YouTuberの「カミサマ」さんとか。
障がい者ブロガー、障がい者シンガー、障がい者コピーライター、障がい者スタイリスト…もうなんでもアリですよ。
過去にもこれだけの障がいをもった偉人がいるわけですし。
もちろん、誰でも簡単に大物になれるわけではありません。でも、それは健常者だって一緒。
確実に言えるのは、「やってみなければ何も変わらない」ってことです。
お互い「できること」・「できないこと」があるのを認めることが真の平等
障がい者であることを理由に差別してはいけない。
そんなことは誰だって分かってるんですよ、頭では。
でも、目の前に片脚がない人や知的障がい者がいたら、現実として「この人は普通の人ができることができない」と感じてしまうのはどうしようもないことですよ。
「それでも平等なんだ」とだけいって教育や法律を押しつけるから、いまひとつ納得がいかず、時には事件の引き金になる。
そうじゃなくて、「あの人は片脚がないけど、話しててすごく面白い。」とか「知的障がいがあるけど、すごく絵が上手い。」みたいに考えられるようになればいいんです。
そうやって、「彼にはできないことがある。でも自分も彼ほどにはできないことがある。」という整理ができれば、「どっちもどっち=平等」と納得がいきますよね。
まとめ
- 誰もが心の中に「障害者なんていなくなればいい」を持っている
- 障がい者に対して感じるストレスが、我慢の限界を超えると差別的な行動をする
- 教育・法律・支援により、差別的行動を自制できる
- 障がい者の強みを伸ばせば、差別的行動を抑えられる
- お互いに「できること」・「できないこと」があることを認めるのが真の平等
植松容疑者の異常性を報道しても何の役にも立たないし、教育や法整備もまぁいいんですけど、本質的な解決のためにはこんなことが必要なんじゃないでしょうか。
差別してしまう側の自制を促すための対策だけではなく、障がい者側の強みを伸ばすことで、差別の根本にある「自分より劣っている」という見え方をなくしていくことが大切です。